2016年01月24日 |
意外と行ってなかったシリーズ第3弾!は「大久野島」
■ ウサギの島!大久野島へ行って来ました! "まだ行ったことないシリーズ第3弾"!は、最近、多くのヒトが訪れる「多くの島」へ行って来ました。 |
旅の出発は、竹原市の忠の海港!目の前に広がるのは、ただの海でした! |
大久野島は、基本的には"無人島"ですが、約700羽ものウサギが棲んでいる島として、特に女性に人気の島です。 |
← "無人島"でありながら「国民休暇村」があります。1963年にオープンしました。 |
フェリーは出ていますが、事前に申請しなければ自家用車の乗り入れは出来ません。 周囲4.3㌔の小さな島ですから歩いて回れます。 港から「国民休暇村」まで、無料の送迎バスが運行されています。 |
YOUTUBEの投稿をきっかけにウサギを目当てに外国人観光客の方が急増! 2014年には前の年の15倍!5000人以上が訪れました。 |
島には餌は売っていないので、竹原の道の駅で人参を買っていきました。 "一本でもニンジン"です。→ |
色々な毛色のウサギが居ますが、"アナウサギ"と言って、穴を掘ってトンネルの中で暮らしています。 |
野生ですのでヒトが食べるようなお菓子などは、与えてはなりませぬ。 忠海港で餌を売っていました。タダではありません。百円です。 → |
臆病な動物のはずですが、餌にはつられます。 ← 生まれて1、2週間の仔ウサギもいます。 |
決められた餌は与えても良いですが、ウサギを撫でたり抱っこしてはダメです。ストレスに弱いそうです。 |
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アナウサギだけに、そこらじゅう穴を掘りまくります・ 地面の穴は、寒い時にハマったりしています。 山肌に穴を見つけると、奥は縦横無尽にトンネルが掘られているそうです。 |
そんな"楽園"のような島である反面、「大久野島」は、戦前から終戦まで、"毒ガスの島"という暗い過去がありました。 「国民休暇村」の横には、「毒ガス貯蔵庫」があります。 → |
しかし「大久野島」で"毒ガス"が作られていたという事実は、戦後40年もの間殆んど知らされていませんでした。 秘匿とされ、明らかにされ始めたのは1984年に報道されてからでした。 ← 毒ガスの製造管理、資料保管、検査などが行われた「研究室跡」 |
こちらは日清・日露戦争で使われた 「探照灯(サーチライト)跡」→ 島内のいたる所で「立ち入り禁止」の看板を目にしました。 崩壊の恐れと残留物の影響が懸念されるのかもしれません。 |
「毒ガス資料館」は、1988年に建設されました。つい最近の事です。 大久野島の"毒ガス"の全てが明らかになっている訳ではありませんが、真実の一部を見て学んでください。 |
資料館の隣に実際に使われていた毒ガス製造機の一部が展示されていました。 "毒ガス"製造は、作っていたヒトたちの身体をも蝕んでいきました。 |
← ウサギの耳のオブジェは、立って被ると音が聞こえます。 戦時中、ジュネーブ条約で禁止されていた毒ガスを、ここの工場では、約6600㌧が製造され、主に中国に運ばれました。 |
"遊歩道"(左)と 自然・環境情報などが展示してある"ビジターセンター"(右) → |
今では"無人島"ですが、"毒ガス"を製造していた時には、述べ6700人余りがこの島で働いていました。主に10代の若い男女でした。 |
桟橋の近くにある"発電所"へのトンネルです。 → 朝鮮戦争の時には、アメリカ軍が弾薬庫として使っていました。壁には英語で落書きもありました。 |
← "毒ガス"を製造するための電気を発電する「発電所跡」です。 |
"毒ガス"製造施設は、秘密を守るため、終戦と同時に殆どの施設が壊されたり、資料は焼却されたため、この「発電所跡」は、貴重な遺構となっています。 |
"ウサギの楽園"と"毒ガスの島"という二面性を持つ島。 ここで語れることは少ないですが、少しでも何かを知りたい気持ちにかられたら "真実"を調べてみて下さい。 |
この島では、戦後は終わっていないことを実感します。 |
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← 明治時代から使われていた"桟橋跡"です。 当初は、ここから"毒ガス"の資材を陸揚げしていましたが、本土からよく見える場所にあるため秘密を守る意味から使われなくなりました。 |
忠海港に戻ると夕方になっていました。 海岸沿いの国道185号線を走っていると"夕日の絶景ポイント"にさしかかりました。 「パーキングエリア"エデンの海"」は、県立忠海高等女学校の先生、若杉慧(けい)が書いた小説「エデンの海」に因んでいます。↓ |
絵に描いたようにカップルが夕陽に向かって景色を眺めていました。眺めていた人を眺めていました。 |
穏やかな瀬戸内海の島の向こうに、今、夕陽が沈もうとしています。 |
愛媛の「ふたみシーサイド公園」や山口の笠戸島より美しい夕陽を見ることが出来ました。 "平和"を思わざる得ない夕陽でした。 |