2011年07月17日 |
東日本大震災から4ヶ月たった宮城県を訪れました。
■ 気仙沼市は、宮城県の北東部に位置し、日本有数の漁港として知られます。 この度の震災では、津波と火災により大きな被害がでました。 震災から4ヶ月が経ち「復旧」と「復興」は進んでいるのか、被災された方々や関係する方々にお話を伺いました。 |
海岸近くに入ると突然倒壊した家屋が 現れます。 |
気仙沼の象徴でもある「大漁旗」が 元気付けてくれます。 |
街のいたるところで、まだ水が吹き出ています。 |
漁に出る準備をしていました。 |
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港もまだいたるところで被災したそのままが 残っています。 |
広島から江田島フェリーが助っ人に来て いました。 |
火災で、真っ黒になった船もまだそのままです。 ↓ 持ち主の方でしょうか・・・ |
近くのGSも天井まで津波が来たようです。 |
GSの時計は、当時の時刻を指したまま になっています。 |
日頃からの意識の高さを伺わせる設置看板 ですが、津波は予想をはるかに超えました。 |
魚市場も少しずつ活気を取り戻しつつ あるようです。 |
先週、震災後初めてのカツオが水揚げされ ました。 |
まだ冷凍庫がないため、ここで処理できる魚の量には限界があるということです。 |
← 市場の横を走る道路には、まだ漁船が 打ち上げられたままでした。 |
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いたるところに被災車が放置されています。 |
ビルも津波の痕跡が残されたままです。 |
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気仙沼市役所を訪れ状況を伺いました。 |
市役所に隣接して、安否情報などを提供 する「情報センター」があります。 |
各方面からの「応援・支援メッセージ」も ここに掲示してあります。 |
手作りで復元した「記憶の街」 |
今は、全てが無くなりました・・・。 |
活気があったころの気仙沼の写真を展示 |
ここで働く熊谷さん(手前右)にお話を 伺いました。 |
大内さんは、家が全壊。一緒に暮らす お父さんは避難場所へ避難し助かりました。 |
← 熊谷さんは、ご主人が海岸近くの職場 から車で避難しようとしましたが、渋滞に 阻まれ、3キロを自力で走って避難場所 まで辿り着きました。しかしご主人のお母 様は津波により亡くなられたそうです。 |
次に避難所になっている気仙沼の公民館 を訪ねました。 |
丁度、夕ご飯のお弁当が届いたところでした。 |
この避難所で暮らす佐藤さんは、奥様を亡く されました。 |
毎日、近くにある祈りの広場で花を捧げて おられます。 |
周囲は、遠くの海まで見えるほど建物が 全て流されていました。 |
佐藤さんの奥様は、指定された避難場所で 高さ15mのこの高台まで避難したものの、それ を上回る津波によって亡くなられました。 |
← かろうじて残っている建物を見ると、 3階部分まで被害にあっていることが 分かります。 |
↑ 佐藤さんが辛い事実をあえて口にされた のは、「現状を知って欲しい」「事実を伝えて 行かなくてはならない」という思いからです。 私たちも、震災被害を忘れてしまわないよう 機会あるごとに「事実」をお伝えしようと 思います。 |
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近くには撤去したがれきを集める場所が ありました。 |
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この辺りは「陸中海岸国立公園」です。 |
美しい自然と、瓦礫の山が隣り合わせ。 |
大木の枝に残骸が未だにひっかかったまま。 |
鉄道も復旧に時間がかかりそうです。 |
陸中海岸沿いはどこも同じような風景に なってしまっていました。 |
瓦礫の中に、時々生活を偲ばせるものが まだ残されています。 |
被災地を見ることは、現状を知るだけでなく 様々なことを想像させ、思いを募らせました。 来週は「復興」をテーマにお送りします。 |